昭和46年11月20日 朝の御理解
御理解 第17節
「神の綱が切れたと言うが、神は切らぬ。氏子から切るな。」
神の綱が切れた。どう言う時に、此の神の綱が切れたと言うかと。自分の願いが成就しない時。自分の願いが裏腹に出る時。右と願っても左と出た時。そう云う時に、是と同じ様な意味の事を申しますですね。神の綱が切れたと。まあ、言うなら神も仏もあるものかと言ったり。そう云う時に、いわゆる神の綱が切れたと言う。成る程、神の綱が切れたかの様に見える。例えば大東和戦争で日本が無条件降伏をせねばならない様な結果になった。本当に神も仏ももう無いとね。
今に神風が吹くであろう、今に奇跡が起こって日本が大勝利をするだろうと、言った様な意味が崩れてしまった訳ですよね。しかも無条件降伏すると言った様な事になった時に、殆どの国民が是は言うたり思うたりした事は、もう神も仏もあるもんかと言うて、まあ国中がある意味で混乱に落ち入った、乱りに乱れた。果たして神も仏もなかったであろうか。神も仏も居られたからこそ、現在が日本があるのだと。ね。
そう云う時にです、いわゆる神の綱が切れたと言うのは、そう云う事じゃなかろうか。其処で、此処で私共が分からせて頂かなければならない事は、ね。教祖様が教えて下さる信心の道と言うかまたは、教祖様が打ち立てられた信心とはそんな物ではない。氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る様なおかげは、ただ目先の一つ二つが成就したと云う様な事ではない。いわゆる人間の根本的幸せとでも申しましょうかね。本当に、神と氏子とが仲良うしながら、神と氏子とが、ね、喜び合うて行く様なおかげ。
それが、お道の信心のおかげの理想郷なのである。ね。神と氏子とが仲良うする、しかも神と氏子とが喜び合うて行けれる道。そう云う信心が、信心を教えておられるのだと、私共がその、分からせて頂いとかんとです、此処の御理解17節の様な結果にも成りかねないので御座います。おかげ頂きたいばかりに、もうそれは降っても照っても、お参りをした、お話も聞いた、修行もさせて頂いたが実際は、ね、自分の願いは成就しなかったどころか、反対な結果になったと云う様な事になるのです、ね。
それじゃ、つまりませんね。其処でです、成る程、是はまあだ私の信心が足りんのだと、一心に信心を進めて行けば、其処からおかげが受けられると仰る様な。是はまだ信心が足りんと言う所。そう云う、例えば生き方を持ってすれば良いのですけれども、ね、そう云う生き方のもう一つ根本になる所を、分かっておからなければ、そう云う、いわゆる本当の意味においての底力と言った様な物が出ません。
是はまだ信心が足らんとじゃろうから、一遍参るとは二遍参りしようと。是は私どんな信心は出けんけん、貴方も加勢して下さいと、夫婦が親子が兄弟が一生懸命の、まあ信心になる。まあそれもいい。けれどもそうしてでも、おかげにならない場合があるんです。自分の思いにならない事があるんですね。一家中おすがりをした一生懸命修行もさせて頂いた、お参りもした。それでもおかげにならん場合がある。ね。
大連をとああ大連だったですかね、宝天だったでしょうか奉天だったでしょうか、満州のね。松山と言う大変高徳の先生がおられました。その先生の所で一家を上げて信心をする熱心な信者さんがあって。ご主人はそこの総代までもなさると言う様な熱心な信者。所がそのおかげが、言うなら右と願ってから左となったり、左と願っても右なったりと云う様な事でその、一向おかげにならない。松山先生もまあほとほと困られてあるですよね。お取次ぎをさせて頂いて、おかげを受けないもんですからね。、
ある御本部参拝の折に、三代金光様のお取次ぎを頂かれて、私の方の氏子にこう云う人があるんですが、ね、どう云う信心をお取次ぎさせて頂いたらおかげになりましょうかと言うて、お伺いをなさったら、金光様が即座に仰った。こうすればおかげになると分かりながらこうせんから、おかげになりませんと仰ったそうです。長年の信心一家を上げての信心。しかもお話を頂いて信心者としては。
こうあらなきゃならんぞこうも改まらなければならないぞ、と云う事が分かっておるのに、こうしないからおかげにならんと仰ったんです。もう鶴の一声。その事を帰ってその御信者にお伝えになった。はあ、それどころじゃありますまい。此処を改まにゃ一家中で此処ん所を改めにゃと、言いながら、思いながら、踏ん切りが付かずに改めてはいなかった事は、おかげにならん元でしたと言うので、もう本当に一家を上げて、総改まりに改まっての信心に変わられた。
もう瞬く間におかげを受けられたと云う話を聞いた事があります。けれども今日わたしが言おうとしておるのはね、ならそう云う様に一家を上げて信心をする。なら総改まりに改まりもしたけれども、おかげにならんと云う事が、ならあるのですね。だからそれでもですね、私はそれでおかげを頂いただけでは、いけんと思うですね。それが子にも孫にも伝わって行くとは限らない。
成る程それは改まる事、改まって一家を上げて神様に打ち向かうたからおかげを頂いた事になろうけれども、ならそのおかげが必ずしも末広がりになると云う事には限らんのです。ね。ならそう云う信心をさせて頂いても、例えて言うならば、おかげにならん場合も、それこそ瞬く間におかげを受けたと云うのではなくて、それでもおかげにならんと言ったら、どう云う事になる。それこそ神の綱が切れたと言わなければならない。
氏子から切るなと仰るが、神からは切らんと仰るが、もう私の一家には、もう愈々神様が見切りを突きなさったのであろうかと云う事になるでしょうが。なぜかって根本的な所が分かっとらんからです。だから今日私そこの根本的な所が分かると、と言う所からの総改まりの信心であり、また家族を上げての信心であり修行であり、お参りであると云う事にならせて頂かなければならない所を、皆に分かって頂きたいと言うのでありますね。成る程総改まりに改まりゃおかげも頂くでしょう。
一家中が上げて信心をすりゃおかげも頂くでしょう。けれどもそれでも例えば、ならおかげの受けられないと言った様な場合です。それでもね神の綱が切れたと言わんで済む程しの信心とは、どう云う信心かと言うとですね。お道の信心と云う物はね。所謂神と仲良うする信心であり、神様と氏子とが一緒に喜び合うて行けれる信心、所のおかげの信心でなからなければならないと云う事。此処の所がね金光様の御信心の一番根本になるとこなんですから、そこが分かって改まりそこが分かって一家を上げての信心。
そこが分かっての修行でないといけんのです。そこが分かっての信心になります時に、是程信心するのにと云う事は、出て来ません。一家を上げて信心しよるのにと云う、総改まりに改まって行きよるのにと云う事はないです。ね。先日、久留米の大場さんの奥さんが、御神夢に頂いておられる。確かに家を出る時にはご神飯のお供えをして来た。所が、此処で御祈念なさっとる時頂かれた所が、その御神飯が、空の御神飯。ね、ご飯がこうやって盛ってある。
確かにもっと供えて来たはずのに、その御神飯のお供えが、御神飯が空の所を御神眼に頂いて、どう云う事で御座いましょうかと言うてお伺いになった。で、私が大場さんに申しました。それは、神様がままになって御座らんと云う事ですよと、私が申しました。神様がままになられんという事は、どういう事であろうか。まあ例えば大場さん達のお商売から言うたら、毎日御夫婦で、ああして一生懸命お参りになる。日曜ともなりゃ、もう家族上げてお参りになるね。
しかももう本当にこれが一生懸命であろうと思われるようなお供えもなさる。ですから神様がいかにも、ままになってござるごとあるですね。お参りもしよる、お供えも段々させてもらいよる。ところが、神様はそう云う事で、神様がままになんなさったと云う事じゃないのです。天地の親神様が、一人ひとりの氏子の上に思いを掛けて下さる。まして、信者氏子と呼び掛けて下さる、お道の信心をさせて頂く者の上には、それこそせっかく縁を頂いたのであるから。
せっかく金光大神様の御信心にならせて頂いたのであるから、さあこれからは本当のおかげが、本当の幸福が頂けれるところまで信心を進めて行ってくれよと云うのが神の願いである。ね。そこで、私共の願いもさる事ながらです、そう云う神様の願いが先持って成就する事こそ、神がままになられると云う事になるのです。ね。まあ例えて私の事で申しますならです。ね、願い通りに、それこそ置いた物を取る様におかげを頂いた時代は、いわゆる私がままになっておった訳です。ね。
そしてまあそれこそ、大坪さんのうだごとが始ったと言われる位にです、自信を持っておかげを受けられる事を、人にも聞いても貰った時代もあるです。所がですねそれが長くは続かなかった。今度は自分の願いが右と願や左、左と願や右と言った様な時代があった。そん時に私は、神の綱が切れたとは思わなかった。初めて分からせて頂いた事は、私の願いが成就すると云う事だけじゃないて。是はもっともっと私にかけられる天地の親神様の願いと云う物は、もっと他の所にあるもっと大きな所にある。
ならば、私の願いと云う物が成就するのではなくて、ね、私にかけられる神様の願いが先に成就しなければならないと気付かせてもらった。今日の、此処ん所です。ね、それで親先生にお取次ぎを頂いて、もう取次ぎの、金枡商事と言っておりました、金枡商事とか、大坪総一郎の願いが成就すると言った様な事は、もう願いませんと。どうぞ、神様、私にかけられる神様の願いがありましょうから、その願いが成就する事の為に是からの修行にかけて行きたいと言うて、お取次ぎを願う様になった。
さあ、それからはもう、本当に右と願っても左、左と願っても右。まあ、願いはしなくても、言うならば、難儀な方へ、困った方へとばっかり芽が出て行ったと。ね、所がどっこい、私の心の中に、神様の願いが成就する事を願っておるのですから、ははあ、此の様にして神の願いが一歩一歩成就しておるんだなあ、と思うからそれが有り難かったです。こう云う難儀な中に、ほんなこて、そげん有り難かっですかと人から言われるくらいに有り難かったです、私は。
もう、神様の御用に一念、一念をそこに燃やさせて頂く程しに有り難かったです。その時分ね、本当に大坪さんの後ろから御洸が差しよるごたると云う風に、まあ言われた時代はその時代でした。もう、いよいよ難儀魂魄の時代に有り難うして、有り難うしてたまらなかったんですから。もう、是は事実です。それがね、願いが替えられた所からそうだ。私の願いが成就いたします様にじゃなくて、私にかけられ天地金乃神様の願いが成就して行っておるんだと分からせて頂いた所からです。
どんなに、それこそ普通では神の綱が切れた、あれ程信心さっしゃるとに、どうしてあげな貧乏しなさらんならんじゃろうかと云う様なです、時代に私は益々神の綱を手繰って行ったと云う事になります。ね、そうしよったら、今度は自分が助かるのではなくて、人が助かる様になって来た。神の願いはその辺にあった。私は商売よりは他に知らないのですから、商売を持ってと思うておったけれども、その商売よりも、やはりこうしてお取次ぎの御用でもさせて頂くと云う事が神の願いであった事が分かった。ね。
その願いが今に続けられて、現在の合楽がある訳でありますね。だから神の綱が切れたと言う様な思いやら思う、それこそ毛ほどの隙も無い訳です。どうしてこげん信心すっとに、どうしてこげな事が起こるじゃろうかなんて、もう思いもしないの。此の様にして神の願いが成就しておるんだと云う事です。ね。例えば信生さんが頂かれた、御神飯の器が空であると云う事は神様ままであった、ね、大場さん達の願いは成就して行きよろうけれども、神の願いはして見るとね。
例えばお備えをしたとか、ね、一生懸命参りよると云う事が神の成就じゃないと。まあだ神様がままになりござらん。自分がままになるたる為の、言うなら修行であり、お参りであり、お供えである。ね、だからそれがです、神の願いが成就する事のための信心を先にさせて頂くと云う様な、生き方にならせて頂く時に初めて、神の綱が切れたと云う様な、思いはせんで済むのであるね。
先程から私今の大連の、松山先生のとこでの御信者さんのお話は、もう何回となし繰り返させて頂いたが、是はおかげを頂くと云う意味においてです、本気で一家を上げて信心せにゃ、本気で一家が改まらにゃと。成る程そこには早速おかげを頂いておられると云う事実をです鶴の一声。改まろうとして改められなかった事がです、おかげを頂けない元であったと気付かれたと、云う意味でお話をしておりましたが。
今日は、例えばそう云う風にならせて頂いてもです、なら私の20何年前の大坪一家がそうでした。ね、一家を上げて本当に一生懸命信心させて頂いたけれども、なら益々難儀な、困って行ったと云う事実がある訳です。だからそう云う、なら一生懸命の信心させて頂いておっても、そう云う結果になった時にですらです、神の綱が切れたと言う様な、ね、嘆かわしい事を思わんでも、言わんでも済むようなおかげを頂く為にです。金光大神様の御信心のいわゆる根本の所を分かって。
金光大神様の御信心は何処までもね、神と氏子が仲良うする信心。私だけが助かったのじゃない、私が助かるという事は、そのまま神様の助かりに繋がっておらなければならないと言う所にです、ね。お道の信心の素晴らしいと言や素晴らしい所があり、其処ん所がどうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、そう云う信心。其処から本当の幸福の、いわゆる根源となる物がある訳です。
口には言いよらんです。ばってんどうして家はあげんおかげ頂きらんじゃろうかと言いよる事は、もうすでに神の綱が切れかかりよるとですよ、そう云う思いをする時には。ですから神様から決して切られる事はないけども、自分の思いが段々、綱が切れかかるような思い方をしたり、切れたりするのであります。また本当に、ね、是はおかげを受けすぎて、神の綱が切れる様な場合もありますね。おかげを、あんまり頂き過ぎて信心を、神様を神とも言わん様になって来るともあります。
かと言うと自分の思うようにならんから、これはいくら拝んだっちゃ同じこつ。いくら修行したっちゃ同じ事っと言った様な事で、神お綱を外して行く切って行く人もあります。根本的な所が分かっておらんからであります。今朝方私お夢を頂いた。それは丁度、まあ言うならば、まあもっともっと偉大な物でしたけれど、あの門司とばかりですね、関門です。ちょうど、ああ云う様な感じの所へですね、もうそれこそあのお宮さんなんかに参りますと、あの太鼓橋ていうのがあるでしょう、こう。
そのもうその橋がですね、もうそれこそこう天竺から天竺に掛かっておるのかと思われる、程こんな大きな橋なんですよ。まあそれは分かりやすく言うなら、その門司から下関にこう、橋が掛かっておる様な感じです。その一番その饅頭の様に、なら饅頭橋の一番最後此処ん所にね、私共夫婦と伊万里の竹内先生夫婦が立っておられる所のお夢であった。そして夜景であって、こうネオンサインがこう、今登ってきた向こうの方には、そのこう町がこうあって。
ネオンサインが一杯付いておったのがもう消えておるから、もう遅いからお店なんかのネオンが消えておると言った様な感じ。それが良く分かるのは、何か天狗のね、天狗の大きなネオンが、こう見えるんです。けれども、もう電気は入ってない、消えておると。もう、やっぱ遅いから、もう商、あの商店が皆休んだのだろうと思うておった。そん時にですね、フッとその私が思ったのは、はあ、是はもう上り詰める所まで上り詰めたが、ほんに、下る事を知らない。
言うなら前進から前進を遂げて、いわば此処の太鼓橋の丁度真ん中の一番高い所におるが。ね、子rは下る事を知らないがと思うた瞬間、目が覚めた。昨日竹内先生方夫婦がお礼に出て見えられまして、まあ色々お話をさせて頂いた中に、もうそれこそ伊万里の方達が新聞関係の人達までがです、ね、この竹内市長はツイとると、腑がええ人だと言うそうですね。と言う程しに事が、素晴らしい事が大きな事が、今まで問題になっておった事が解決して行く、成就して行くのを一途を辿っておられるとです。
だから竹内市長っちゃツイた、あれは竹内市長にツイた、所謂腑が良いという風に皆が言うとる。先ず第一天候の事からそう。伊万里に何か行司がある時には必ず今までは雨じゃったと言われる程しの雨がです。もう例えばあのおくんちなんか三日間も続きますがね、もう必ずは一日位は雨が降る、降らんのがないそうです。所が竹内先生が市長になられてから、えらいそう云う町の行事にですね、雨が降った事がないて。
降りよっても降り止むっちゅうぐらいな、おかげを頂いておるから、市民の人達が心ある人は成る程と言う。是は信心しなさるけんと言う者も間にありましょうけれども。殆どは伊万里市長はツイておる、竹内先生、竹内さんは〔ふ〕が良いと云う風に言う程しに、おかげを受けておりますと、こう言われるんです。所謂頂点の所にある訳ですね。私共でもそうでした。昨日あの写真のアルバムが立派に出けて参りましたが、その写真を見せて頂きながら、まあ本当におかげを頂いたもんだなあ、と思うです。
中にはあの私共が親子、孫夫婦がです。ね、しかも初婚の者ばかり。ね、途中で婆しゃんが死なっしゃったけん、またもろうたと言うて父達の場合でも、私の場合でも、ね、御夫婦が揃うてあの写真に、記念写真を取らせて頂いておりますのが。しかもこう云うもう本当に有り難いおかげの中にね、おかげの中に、おかげを頂いておると云う事。ね。それに嘉朗さんが編集して来ております、編集しておる訳ですけども。
それに家柄とこう書いちゃる。だからこう云う素晴らしい。なら家柄と云う物になって来たと云う意味でしょう。けれども是は家柄じゃいかんけん、家柄一筋と書かにゃいけんなと。教祖金光大神の言葉を借りると、家柄一筋となって人間と身代と達者が、ね、三代続いたら神の機間に叶うた氏子じゃと仰るが。ね、信心も出けんのに人間も出けとらんのに、いわば人間と身代と達者が揃うた様なおかげをです。
事実は頂いておると言う事がです、もう本当に広大無辺のおかげを頂いて有り難いと、私今朝からその事を思うてお礼を申させて頂きよったら、漢字の露と云う字を頂いた。うかぶり書いて路という字。是こそ広大無辺のおかげを頂いた、20何年前にそれこそ食べるに食がないといったような時代、着るに衣がないといった時代の事から思うて、まあ何とおかげを頂いたもんであろうか、しかも健康で、しかも親子孫三代が続いて、此の様なもう晴れがましいと言や、こんな晴れがましい事はないでしょう。
同じ者が、紋付を、御夫婦が着せて頂いて写真に収まっておる。その写真を見せて頂きながら、それを感ずるです。本当に金光様の信心っちゃ有り難いな。こう云う信心をお互いさせて頂いて、誰でも皆がこう云うおかげを頂いてもらわなければならないなと云う思いに、もういよいよ募るばかりです。広大無辺のおかげを頂いてと、お礼を申させて頂いておったら、神様から露という字を頂いた。
成る程、氏子からは広大無辺であろうけれども、神が渡しとうおかげと云う物は、まあだ露ほどしの物だと仰る。ね、まあだ、まあだ神様がどれ程の願いと、どれ程のおかげを下さろうとしておるかと云う事が分かるじゃないですか。神様の願いが是で成就したのじゃない。まあだ、まあだ神様の願いが、大坪一家の上にあるであろう、また、おかげも限りなく下さるとしておる事であろうと云う事が分かるでしょう。
成る程この橋の頂点にあるんだなと。そこで目が覚めて、是はどう云う事であろうかと思わせて頂いておりましたらです。その夢を、今朝から御祈念の中で思い出させて頂いてから、ね。処がです、今日私が皆さんに申しておりますね。私共の信心という物は何処までもね、和賀心が神に向かうのを信心と言うのであり、ね、 総お道の信奉者が生神金光大神を目指しての信心。こっちはね、いわば天狗の大きなネオンが消えておると云う事は、ははあ、天狗と云うのは自慢と云う事であろう。
そう云う様な物が消えて行った。そして、人間の世界から、神様の世界に架けられておる処の、この大きな橋を渡って、是から成る程、ね、下って行くと言うても、信心が下って行くのじゃない。神の世界に入って行くのだ。ね。人間の世界ではない、神様の世界にこれから入って行く、おかげを頂いて行くと云うのである。こちらが、人間の世界であるなら、人間の世界から、神様の世界に入って行くと云う事に。
是からなら同じ下り坂であっても、手前の方へ下るのではなくて。先の方へ向って下って行くのであると云う事を分からせて頂いた。はあもう限りなくおかげを頂いて行かなければならないなと。其処ん処が、ギリギリ根本を分からせて頂いたら、後は見やすい。其処までが頂上なのである。信心とは和賀心が神に向かうて行く。ははあこう云う難儀、こう云う修行を持って神様へ近づいて行くんだなと。ははあこう云う難儀こそ、今こそ神様が儘になっておられるんだなと云う頂き方をするならばです。
神の綱が切れたと言う様な思いは、もうそれこそ毛筋ほどにも起こって来ないのです。ただ有り難いばっかりなんです。そう云う意味でですね、神の綱が切れたと言うが、神からは切らん、氏子から切るなと。まあ切るの切らんのじゃない。ね。益々神様へ近づかせて頂く以外にはない程しの信心を頂くと云う事は、お道の信心のいわゆる、今申しました根本の所が分かっての信心でないとです。
ただ、改まりさえすりゃおかげが受けられる。ただ磨いてさえ行きゃおかげ、成る程おかげは受けられましょう。けれどもね、それだけではいけん。それだけなら、何々様の信心だって、いわば同じ事になる。ね、なら改まっても、一家総、線を揃えて信心しても、なら、おかげにならないと言った様な場合すらある。けれども、そこの思いがですね。神様、神と仲良うする信心であり。
神も氏子も一緒に助かって行けれるという信心。そう云う願いを、天地の親神様が持っておられるんだ。そう云う神様を拝んでおるんだと分からせて頂いたらです、どんな場合であっても心が揺るぐ事も、神の綱を外す事も、切る事もいらないと云う事が分かるでしょう。それはもうどう云う信心させて頂いてもおかげにならんと言うてもです。一つも、それこそ微動だんに揺るぐ事はないです。
はあ今こそ神の願いが成就しておる時なんだと分からせて頂くからなんです。今こそ自分の心が神に向かうて進んで行く時だと分かるからなんです。ね。其処ん所を根底として、私はこの、今日はこの御理解17節を聞いて頂きました。ね、ですから本当の、神様の本当の願いと言った様な物を身に付けて、そして修行であり、お参りであり、奉仕であると云う事になって来なければならんと云う事が分かりましたですね。
どうぞ。